八幡山城跡 を登る
わし さんです。
八幡山城跡に行きました。
中世の昔の山城の跡です。
八幡山は静岡にある標高の低い山です。
1枚目の写真は、八幡山城に上る入り口です。
首わし さんと記念撮影をしました。
八幡山城は、低い山で、60mと70mの間かと思われます。
上りやすい山ですね。
軽いハイキングに良いですね。
何度か休憩しながら頂上に着きました。
八幡山城の石碑がありました。
建物はもう残っていません。
八幡山城の説明もあります。
説明は、
応永18年(1411)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、駿府防衛のために、周辺の要所要所に城塞を築いた。八幡山城(やはたやまじょう)もその一つである。
文明8年(1476)今川義忠が遠州において横地残党に討たれると、今川氏の跡目を狙う小鹿派と竜王丸派の紛争が勃発した。この時、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ1.5km、北方愛宕山城へ2km、東方小鹿範満の館へ2km、西方持舟城(用宗城)まで5km、それらは全て指呼の間に一望することの出来る重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当たっていた。
長享元年(1487)、新九郎は小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、興国寺城 (沼津)へ移った。
永禄3年(1560)、桶狭間にて今川義元が敗れ、今川氏真の代になると、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の後北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、永禄11年(1568)武田信玄が駿河府中に侵入し、今川氏真を遠江掛川城に追い落とした。永禄12年(1569)武田信玄の第2回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくこの八幡山城を使用した。
天正10年(1582)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正18年(1590)関東へ移った後、廃城になったと思われる。
歴史のある山城ですね。
この当時の武将のオールスターが登場する感じですね。
もちろん、東国だけですけれど。
簡単に登れる八幡山城
登ってきました。
わし
わし
八幡山城跡に行きました。
中世の昔の山城の跡です。
八幡山は静岡にある標高の低い山です。
1枚目の写真は、八幡山城に上る入り口です。
首わし さんと記念撮影をしました。
八幡山城は、低い山で、60mと70mの間かと思われます。
上りやすい山ですね。
軽いハイキングに良いですね。
何度か休憩しながら頂上に着きました。
八幡山城の石碑がありました。
建物はもう残っていません。
八幡山城の説明もあります。
説明は、
応永18年(1411)頃、駿府へ入った駿河守護今川範政は、駿府防衛のために、周辺の要所要所に城塞を築いた。八幡山城(やはたやまじょう)もその一つである。
文明8年(1476)今川義忠が遠州において横地残党に討たれると、今川氏の跡目を狙う小鹿派と竜王丸派の紛争が勃発した。この時、鎌倉から派遣された太田道灌の軍勢がここに布陣した。この紛争は今川家の客将伊勢新九郎(後の北条早雲)の活躍によって一応の落着をみた。
八幡山城は、駿府城へ1.5km、北方愛宕山城へ2km、東方小鹿範満の館へ2km、西方持舟城(用宗城)まで5km、それらは全て指呼の間に一望することの出来る重要地点であった。そこで、新九郎は八幡山城を修築して、その麓に居館を構え、自ら駿府の警護に当たっていた。
長享元年(1487)、新九郎は小鹿範満を倒して、今川氏親を駿府館へ迎え入れた後、興国寺城 (沼津)へ移った。
永禄3年(1560)、桶狭間にて今川義元が敗れ、今川氏真の代になると、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、相模の後北条氏は甲相駿三国同盟を結んでいたが、永禄11年(1568)武田信玄が駿河府中に侵入し、今川氏真を遠江掛川城に追い落とした。永禄12年(1569)武田信玄の第2回駿府侵入以来12年間にわたる武田軍占領時代には、他の城塞と同じくこの八幡山城を使用した。
天正10年(1582)武田氏が滅びて徳川家康が入国したが、天正18年(1590)関東へ移った後、廃城になったと思われる。
歴史のある山城ですね。
この当時の武将のオールスターが登場する感じですね。
もちろん、東国だけですけれど。
簡単に登れる八幡山城
登ってきました。
わし
わし